落ち葉が絶えず舞い落ちていた。

 僕も地面に落ちて、沢山ある変哲の一葉になってしまいたい。どんなに目を凝らしても
僕にはその一つ一つの違いは分からないだろう。きっと他の人にとってもその違いなど分
からないだろう。

 でも、僕は人間だった。

 違う人と人が満ち溢れている世界で生きていかなくてはならない。

 「……きっと違うんじゃないかな?」

 俯いた高梨くんは、小さいけどよく通る声で言った。

 

 僕が好きな人は、水泳をやっている。遠藤のプールサイドを歩く背中はとっても綺麗だ。
褐色の肌、翼の跡のような肩甲骨。金網越しにしか見えない姿だ。

 健康的な肢体に僕は欲情しているのかもしれない。

 それを好きって僕が勘違いしているのかもしれない。

 しかし、僕には関係がなかった。二人の関係性は発展などしないのだから、その差異に
気づく必要がない。

 両親からは特に勉強に関しても、部活活動に関しても多大な期待はされなかった。人並み
の愛情をもらって、僕は享受してきた。それなのに後ろめたさは感じなかった。男子に懸想
していることに一かけらも。おそらく、それほど悪いことしていると思っていたからではない
だろうか。

 それに、この思うことは切なくても苦痛ではなかった。

 遠藤が泳いでいるのを見ると、なんて速く泳ぐのだろうと感心した。真剣な表情で泳いで
さえいる。泳ぎ終わった後、陸に上がる姿はすらりと流れるような所作だ。歩く姿は堂々と
している。

 僕には、彼を見ることは安らぎを覚える。彼は全てがこうあるべきだというラインを易々と
越えている気がする。きっと、手打ちうどんを打つ人が何十年もやってきた麺を打つような
安心感があるからだろう。

 部屋にひとりになって、目を瞑って想像するので十分満ち足りていた。

 友人たちが「彼女ほしー」とか騒いでいるのを見て、僕もそういう気分にはならなかった。
なんとなく甘酸っぱい恋に恋しているという人たちとは、話があいにくいなとは密かに思った。
「だれか好きなやつはいないのかよ」という無邪気な問いにいつも笑って、「いないよ」と答えていた。

 

 体の関係から心の関係へと持ち込めるなんて思い込むのは、都合のいいものではないだろうか。
人間不信となっても不思議じゃないと思う。

 だけど、僕は案外と切り離すことができた。

 友達と信じていたやつに無理やり学校で犯されたのに、しかも初めてのセックスだったのに、
不登校に陥ることもなく次の日も何事もなかったように登校した。

 家に籠もるには家族の目があるし、プールサイドをぺたぺたと足音をたてて綺麗な背中を
見せびらかして歩く遠藤の姿が見たかったことの方が勝った。

 雨だったら、学校を休んでいたかもしれないが。

 もちろん、僕の中でその男は友達から最低の男に格下げした。

 そいつと話していると、人の話を聞いていないなと思っていた。人形に向かって好きなことを
喋るような話し方をしていると、僕は思った。その一方的な会話に時たま徒労を感じさせられた。
人の話をしっかりと聞いて、ゆっくりと言葉を紡ぎながら喋る僕には少し苦手であった。

 僕の祖母は耳が悪かったから、同じ言葉を繰り返して諦めないで伝えることを知っていたし、
祖母の言い回しは同じだけれども伝えたい意思を汲み取る技術も自然と教えられていた。祖母なりの
教育法だったのかもしれない。「ちゃんと聞いてね。しっかり聞いてね」とおまじないのように教えられた。

 だから、どこかそいつと二人きりになることが苦手だったはずだった。だけど、その日は、場の空気とか
偶然とかが重なって二人きりになってしまった。「遠藤のことをいつも見ているよな」と、そいつはいつも
のように喋っていた。そいつが何を言いたいのかよく分からずに、曖昧に頷いていた。すると、勝手に
そいつは不満をぶつけ始めた。

「俺の方がよく思っている」「好きなんだ」「ずっと前から」「なあそうだろ?」

 まるで、どこか遠い国の言葉のように耳には入るが、意味を理解することができなかった。
そいつの目が僕を見ているようでずれていたことが、失礼だなと思った。一方的な会話を
打ち切ると僕の腕を強く握った。獣のような目をして僕を拘束した。僕を捕まえているのに、
そいつの目には捕まえられていなかった。

 嬲るような口付けも、噛み付くような愛撫も、その独りよがりが気持ち悪かった。そして、
屈辱的だった。僕の抵抗する意志も、助けを求める声も、誰にも伝わらなかった。
神様はいないと思った。

 そうして僕は犯されてしまった。

 本当は、神様がちゃんと天におわして、地をしろしめているのかもしれない。遠藤のことを
好きになった僕に罰を下したのかもしれない。だけど、僕は不遜にもそんな神様は認めないと
べたべたした体で縮こまりながら思った。

 その後、もちろん、その最低男と恋愛に走るという奇行などする気もなく、最低男を呪ったが
罰など起こることもなかった。ただ、僕はそいつとの関わりを一切絶っただけだ。

 

 幾季節か過ぎた後、遠藤のとなりに高梨くんがいるようになった。気がついたら、嬉しそうに
笑っている遠藤の横にひっそりと高梨くんは立っていた。

 小さな苦味が胸に混じるようになった。僕も隣に立ってみたいと分不相応に思うようになって
しまった。

 だけど、遠藤は僕のことに気づいて手を振る間柄になった。

 高梨くんは、占いをやっているらしくてそれなりに有名人だった。高梨くんは男なのに、
神秘的なたたずまいで快活な遠藤と一緒にいると、静と動で、なんだかバランスがよかった。
絵になる二人だった。

 「もしかしなくてもお似合いすぎるなあ。僕も遠藤のとなりに立つことができればいいのに」

 と僕は思った。

 だからといって、なんの行動も起こすこともなく、ただ遠藤を見つめることをした。

 遠藤と目が合う度に、僕はそれなりに幸せだった。

 

 ぽん、と背中を叩かれた。思いがけず優しい感触だったので、そして、意外な人物だった
ので、驚いてしまった。

 「高梨くん……。何か用なの?」

 と僕は高梨くんに尋ねた。

 「なんだか幸せそうだったから、お裾わけしてもらおうと思ってね」

 にっこりと高梨くんは微笑む。僕は訝しげに高梨くんを見つめる。そんな視線をものとも
せずに、柔和な聖像のように笑う。

 「きみの好きな人を見つめるまなざしは、やわらかくて好きだよ。だけど、自分の意志を
抑えつけてしまい過ぎていて、それを悲しいとさえ思う人もいるかもしれない」

 「ううん、ただ見ることが幸せだったから」

 高梨くんが何を指しての言葉かよく分からずに、自然と受け答えをしていた。そして、視線を
グラウンドにもどす。遠藤がペースを保って走っていた。ああ、見ているだけでもいいと
再確認する。僕は満ちている。

 

 落ち葉が無数に舞い落ちている。

 永遠にこのまま続きそうな光景だ。

 僕は高梨くんの言葉を聞き返した。

 「何が違うの?」

 「落ち葉は一つ一つ違うよ。ただ、人にとって人よりも区別しにくいってことだよ。だからこそ、
僕たちを見つめている目は優しく厳しいのかもしれないね」

 妙にきっぱりと高梨くんは言い切る。

 「遠藤、ちょっと来て」

 澄んだ声がグラウンドに響いた。僕は憧れの遠藤が来るのに、驚きも慌てもしなかった。デジャヴ
のような心持ちで遠藤がこっちに来るのを眺めていた。

 「なんだよ、高梨、呼びつけて。って、おい」

 「後ね、悪いことした人は必ず報いを受けるんだよ。だからといって、それが見えるわけでも
ないけどね」

 唇の端を上げて薄く笑って、高梨くんは、意味不明なことを呟いて去っていった。

 「あいつって、時々、意味深なこと言うよな」

 「そうかもしれないね」

 僕は自然と笑みがこぼれた。遠くで見ていた位置なのに、今こうして立てることを幸せに思う。

 「それよりも自主練いいの?」

 「たまにサボったって文句のいう奴なんていねーよ。あー、なんだ、お前、俺のこと
よく見ているよな」

 遠藤は髪をいじりながら、落ち葉が散る様を眺める。そんな仕種もさまになっている。

 「うん、遠藤が好きだから」

 「そっか。やっぱ俺って、カッコいいからな。お前も一回、ちゃんと遊びに来いよな」

 遠藤の方も、どうやら僕のことを気にしていたみたいだ。もちろん、それは恋心なんて
ものではなかったが。それでもいいのだ。横で好きなものをたっぷり追いかけることが
できるのは幸せなことだと思う。本当に。

 

 社交辞令を真にうけるのは、間抜けなことだとは知っている。しかし、グラウンドへと
足を運んでしまう自分が情けないし、幸せであったし、とにかく子どもっぽくわくわく
していた。届かないにしても、近くにいられることに僕は喜びを感じていた。

 満たされていると思う。

 少しだけ、神様だっていたっていいかも知れないと思った。

 もう、冬が来る。






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