剣人は逃げたいと思った。逃げるのは卑怯なことだと父親から教わったが、そんな訓辞の言葉を捨て
置いて。まっすぐに見つめる和樹の視線がイタい。緊張してなのか、顔に血液が上がってくるのが分か
る。きっと、熟れたトマトのようになっているに違いない。
「で、考えはまとまった?」
「いえ、一体ぜんたいまとまっておりませぬ」
「何語? 放課後まで待ってあげた僕の忍耐力の強さを褒めそやしてよね」
「ええ、さすが和樹さまの寛容さには敬服致す所存であります」
「だから、面白くないから。却下。せめて、寛容に“ご”くらいつけてみせてよね。中学からやりなおした
ら?」
はあっと大きな溜め息を和樹は吐いた。全く剣人の低能なおツムで考えたって埒があかんないんだか
らと、情け容赦のないコメントとともに。
げっそりとした。この調子で今日の夢なんて判決を下されたら、俺、生きていけそうにないと思う。剣
人は密かに決して今日の夢を和樹にはもらさないと誓った。
「今日は、ちょっと悪い夢を見たんだ」
「はあっ!? そんなこと? なに? 自分は実の両親の子供でなかったとかそういう系?」
昨日の夜、そんな感動系の番組をやっていたと思う。剣人はしっかり見て、実の親子の再会に涙した。
剣人の顔を見て、和樹はしたり顔になった。
「やっぱりね。どうせそんなくだらないことだと思った」
「……くだらないって」
「くだらないでしょ。実の親だかなんだか知らないけど、小父さんも小母さんも剣人のこと思ってくれ
ちゃってるじゃん。大体、それを考えたら、実の親かどうかなんか、なんていうか紙クズ同然?」
和樹は高々と言い切った。また、和樹節が始まったと剣人は思う。
「でも、ほら、自分を産んでくれたんだし、自分のルーツなんだし」
「ふん。天涯孤独の身の上になったんだったらまだしも、剣人にはちゃんと親御さんがいるのに。そし
て、シンデレラみたいにイジメられてるわけでもないんだし。決定的なのは、何よりも剣人は小父さんと
小母さんと血がつながってるでしょうに」
「ま、まあね」
「血は水よりも濃しなんて時代遅れの嘘百八なんだから」
眉をしかめて和樹は断言する。
「仰せのとおりでございますよ」
和樹が暴走してくれて本当に助かったと思った。剣人の悩みがバレずに済んでほっとした。
「あれ? ちょっと違うみたいだね」
「な、なにが」
「いつもの如く、くっだらないお涙頂戴番組に感情移入したあげく自滅したわけじゃないんだ」
きっぱりした口調で和樹は言う。だんだんと目を据わらせていく。
「将来のことで実は小母さんと喧嘩した?」
「えっ!?」
「実は、財布を拾ってしまってネコババしたのが心苦しい?」
「はあっ!?」
「クラスメイトから実は告白を受けてなんて返事していいのか迷っています?」
「……それ、なんの話?」
剣人は、最後の話にどきっとした。確かに、和樹はクラスメイトだし、夢の中だけど告白を受けてしまっ
た。
だが、和樹のほうは、これは違うなとぼそりと呟いて黙ってしまった。
帰る道すがら話していたのだが、家に着くまでにこんな気持ちの落ち着かない沈黙がおとずれるとは
思ってもみなかった。気まずい。
「俺だって一人で悩むことくらいあるんだよ」
なんとも気まずい雰囲気を変えようと、剣人は緩い笑顔を浮かべる。
「……大人になったんだね、剣人は」
表情の読めない顔を和樹はした。
ついと、空を見上げた。
上空の雲が飛ぶように流れている。下の空の雲はまったく流れていないように見えるのに。
「和樹は俺よりも賢いじゃないか。きっと、和樹の方が――」
「子どもだよ。まだ子どもでいいんだ」
和樹はまた倣岸不遜な顔をした。そして、剣人は緩い笑みを浮かべる。
「じゃ、俺もまだ子どもでいいや」
頭上の空は、太陽が見えなかった。そして、軽やかな涼風が二人の間を通り抜ける。
*
「兄ちゃん、なにボケっとしているんだよ。冷めたら絶対美味しくないよ」
「うんうん、龍太郎、食べるよ」
「はあっ、兄ちゃんそのセリフ二回目だから」
「そんなこと言ったか?」
重症だね、これは、と龍太郎は肩をすくめた。
「ほらほら、恋ボケしたお兄ちゃんはほっといて、龍ちゃんはゴハンを食べちゃいなさい」
「はいはい。確かに、母さんの言うとおりだね」
「こ、恋ボケ!?」
剣人は、大声を出した。
うるさい子だねえと眉をよせて、剣人の母親は子をいなす。龍太郎も母親そっくりの表情をして剣人を
見る。
「大体、ボケっとして夢うつつの状況なんだから、お医者さまでも治せない恋煩い以外のなんだってい
うんだい?」
「お、俺は恋しちゃってるのか!?」
剣人は大袈裟とも言えるくらいのけぞった。あの性格のどうしようもない和樹に!?
どんよりと落ちこんだ。
「あたしが、知るわけないじゃないか。生憎といくら血が繋がっていようとも、心の中までわかるわけ
はないさ」
「まあまあ、お母さん、剣人は青春しているんだからそっとしておいてやろうじゃないか」
父親は、ほがらかに笑って家族の暖かいやり取りを静観している。
「お父さん、図体のデカいのがうじうじしていたら、カビが生えそうでおちおち楽しく食事ができないじゃ
ないか」
「ははは、お母さん、ここは広い心で息子が大人になる階梯をじっくりと見守ろうじゃないか」
「そうさねえ。さすが、あたしの選んだ男だ。懐が広いねえ」
「父さんも母さんも相変わらず仲がいいねえ」
自分を除いた家族三人は団欒をしている。今日、和樹に血が繋がってるでしょと言われ頷いたが、こ
んな出来事があると本当かなと首をかしげたくなる剣人だった。
「ごちそうさまッ。兄ちゃんもいつまでも石化してないでよ。片付けるの、今日は僕が当番なんだから」
龍太郎は呆れたような目をしている。
「いやいや、石化なんてしてないぞ」
弟の言葉により、顔をあげると、食卓にのぼっている秋刀魚の白い目玉が剣人を睨んでいるようだっ
た。だから、なんだか居たたまれなくなって、剣人は黙々と箸をまた進めはじめた。ポン酢がよくあって
るなと思った。
「本当に何について悩んでいるのか知らないけど、兄ちゃんには似合わないからほどほどにしときなよ」
「へいへい」
弟の有難い助言に涙が溢れそうな剣人だった。
「サツマイモのお味噌汁、おかわりする?」
基本的には、いいヤツなんだけどなと剣人は一人、ごちる。