その背中が消えるまで、哲哉は黙って立っていた。虎太のひらひらと動く象牙色
のマフラーが目の奥にしばらく残った。となりにより子先生がいるのだが、もうしばら
く姿を心に留めるために努力したかった。
「板野くん、用事に間に合うといいのだけれど」
沈黙を崩すかのようにより子先生は言った。
「酒井くん、もう少しお話していたいのだけれど、私も約束があるの」
「先生、さよならっす」
「はい、さようなら」
より子先生は、近くの喫茶店に入っていった。
普段から虎太が自分をかまってくれるのは、単なる後輩だからなのだということを痛い
くらい分かっていた。虎太がクリスマスシーズンの雰囲気になんとなく落ち込んでいるの
が、その証拠だ。一方的に哲哉が全身で好きだということをアピールしても、まったく効
果が出ていない。虎太が在学中ですら、さりげない位置を崩さなかった。どんなにその距
離を縮めたいと願ったとしても、虎太は笑って受け流す。ウザがられないだけましなのか
もしれないが、哲哉はもっと触れていたいと思う。時折、見せる虎太の優しさがたまらなく
辛い。それでも、自分から寄っていかなければ相手にされないから、哲哉はすり寄っていく。
しかし、人付きあいを大切にする虎太が自分たちをおざなりな対応で逃げてしまったこと
が、哲哉の危機感を改めて煽った。虎太が卒業するときも焦りはしたが、フォローができな
いままに別れてしまう可能性が哲哉の告白を阻止した。虎太が大学の方が忙しくなってし
まったり、最悪な可能性だが、哲哉が志望校に落ちてしまったりすれば、完全に哲哉は打
つ手がなくなってしまう。
「先輩が恋人を欲しいと思うなら、俺がなるのに」
ずっと前から、恋人が欲しがっているのはそれとなく感じていた。浮いたうわさの一つもな
いのだから、勝手にだが思っていた。だが、実際に虎太の口から聞いたときはショックだった。
予測はしていたけれども、辛かった。それは一ヶ月ほど前のことである。哲哉はどきどきしな
がら、虎太にかまってもらっているときであった。文芸部員たちの作品を虎太が遅くまで部
室で添削しているときだった。たまたま、哲哉が受験対策用の特別授業を受けていたとき、
ふらっと部室の方をのぞいてみると、虎太がひとりで作業しているのが見えた。
時間は六時を回っていて、校舎に電気がともるころであった。
まじめに作業をしている虎太の背中に哲哉は抱きついた。いたずらっぽくやれば、虎太が
笑って許してくれるだろうと思った。抱きついた瞬間、びくりとしながら、やがて、ため息を虎
太は吐いて言ったのだ。
「お前が女の子だったら、かなり嬉しいんだけどな。ま、彼女がいない俺にとっては、実現
するとも思えない願望だけど」
机に頭をたれて虎太は言った。
「しかも、俺、あれなんだよなあ」
「あれって、なにっすか?」
「言えるわけねーじゃん。言えることだったら、ぼかさずにズバっと言うよ」
もごもごと呟くと、虎太は黙ってしまった。哲哉は、冗談めかして自分じゃダメですかと言い
たかった。ずっと前から聞いてみたかった言葉は喉の奥で化石になってしまったようで、無
理やりだすと痛みさえ感じそうだった。だから、哲哉も黙ってぎゅっと虎太にくっついた。ただ、
虎太の体温だけを感じていたかった。痛いのも、切ないのも、辛いのも、全部忘れてしまって。
かすかな虎太の石鹸の香りが、哲哉を切なくさせずにはなかったのだが、虎太の温もりだ
けを追い求めようと抗った。
「やっぱお前、わんこみたいだな。あったかくて、気持ちいい。触れているって、こんなにも幸
せなことなんだな」
「じゃあ、先輩、ずっとずっとこうしていたいっす」
馬鹿だなあと虎太は笑いながら、哲哉の腕から抜け出す。哲哉は少し腕をのばしかけた
が、意志の力で下ろした。
「こういうことは、好きなやつとやるもんだってのが世間の相場」
先輩が好きっす。どうしようもなく好きっす。哲哉は胸の中だけで、返事をした。